『新約聖書・訳と註』 第6巻 公同書簡とヘブライ書 作品社
   この巻の特色  (6) 第2ペテロ、ユダ書、(7) 全体について


(6) 第2ペテロ、ユダ書

  これは、正直に言って、お読みになる価値もありますまい。
  細かくはいろいろありますし、私としては手を抜くわけにはいかないので、
  なるべく丁寧に訳文を作り、註をつけ、解説も書いておきましたけれども。
  ごく短い文書ですし、相手にする必要はありますまい。

  どちらも、要するに、当時この人たちの周辺に流布していた 「悪口の言い方」 の一覧表です。
  自分たちが悪口を言いたい相手に、主として旧約聖書由来の、あるいはその他いろいろの、
  悪口のレッテルを貼り付ける、そのために利用する便利な表現集、アンチョコみたいなもの。

  そういう代物が一種のメモとして作られ、ごく一部とはいえ、キリスト教会の中で流布していた、という事実がすでに、
  けったくそ悪くなるような事実ですが、それも事実です。

  ユダ書と第2ペテロの著者は、それぞれ別口に、そのメモを手に入れ、
  それぞれがそれを自己流に少し整えて、文書化した。
  ユダ書は、たったそれだけの代物。
  第2ペテロは、それを第2章に置き、その前後に多少自分の言葉で説教的な文をつけ加えた。

  いや、ほんとに、こんなもの、読む価値なんぞないです。
  しかし、野次馬的興味のおありの方は、ちょっと眺めてみてください。

  ただ、彼らもまた、この悪口一覧表を、自分たちが 「異端」 とみなしている相手に貼り付けるのに利用するものだ、
  と思っていた。もっとも、彼らがどこまで本気で、その 「異端」 を批判する気だったのか、
  そもそもその相手を具体的に知っていたのかどうか、等々、何もわかりません。
  多分彼ら自身、[異端」 に対して悪口を言う時は、こういう文を利用するものだ、ということを知っていただけで、
  それ以上のことはたいして何も知らなかったでしょう。

  ユダ書についてはそれだけですが、
  第2ペテロについては、貴重な記述が1個所だけあります。 パウロ批判です。
  ただし、何をどう批判したいのかは、はっきりしませんが (そもそもはっきりしたことは何も言っていない)、
  ともかく、当時はすでにパウロ書簡集がまとめられ、流布していた、と考えられます。
  そして、そのパウロ諸書簡をひっくるめて、この著者は、
  「何かと理解し難い点のある書簡」(複数)、と悪口を言っている (3,16)。

  なお、この文についても、新約聖書の中に聖なるパウロ大先生を批判する文が存在するわけがない、
  と勝手に考えた聖書翻訳者の皆さん (全員!) は、この文を、ここまで露骨、勝手な改竄が許されるのか、
  とあきれるほどに、滅茶苦茶に改竄して 「翻訳」 していらっしゃいます。


(7)全体について、「公同書簡とヘブライ書」

  この巻の構成は、要するに、他の巻に入らない文書をここに全部ぶちこんだ、ということです。 拾遺。
  従って、相互にまったく無関係、月とすっぽんほどにも質の異なる、向いている方向もまるで正反対、
  互いにそっぽを向いている文書が並んでいます。

  共通するのは、書かれた時期くらいでしょうか。すべて、1世紀の末近くから2世紀前半。
  つまり新約最後期に属する文書。
  もしかするとヤコブ書だけ少し早いかもしれませんが、それもわかりません。

  その中でも、第2ペテロとユダ書は明瞭に最も遅く、2世紀半ばの可能性大。
  他は、1世紀末から2世紀はじめ (130年頃まで?)。
  ヘブライ書はやや早いかもしれません。第1ペテロは1世紀末という説もありますが、ほぼ確実に2世紀に入っている。
  ヨハネ3書簡もほぼ確かに2世紀 (ただし、ヨハネ福音書の 「編集」 とのかねあいで、1世紀末と言えるかも)。

  この巻におさめた文書は、伝統的なレッテルとしては、ヘブライ書以外はすべて、「公同書簡」 と呼ばれてきました。
  もっとも、そう呼ぶのなら、ヘブライ書も公同書簡でしょう。
   ヘブライ書とヤコブ書が 「公同書簡」 と呼ぶのにもっともふさわしい。

  公同書簡 (epistulae catholicae) というのは、パウロ書簡以外の 「書簡」 につけられたあだ名です。
  ところが、2世紀の間に徐々に、ヘブライ書も使徒パウロが書いた書簡だ、という 「説」 が流布してしまった。
  もちろん、まったく事実無根、考えようもなく無茶苦茶な 「説」 ですが、
  これを 「正典」 の中に入れるためには、「使徒」 の一人が書いた、というお墨付きが必要だったので、
  それでこれをパウロが書いたことにしてしまった。
  その結果、以後の写本では、ヘブライ書は 「パウロ書簡集」 の中に入れられ、
  「公同書簡」 は別口にまとめて写本されるようになった。

    なお、そのせいで、ヘブライ書の本文そのものにも、最後のところ (13,17-25) に、
    パウロが書いたかの如き体裁を作る文章が後になって付け加えられた。

  パウロ書簡 (少なくとも真正のパウロ七書簡)は、一つ一つ特定の相手あてに実際に書かれた書簡です。
  ただし、擬似パウロ六書簡は、いずれも特定の相手に送られた書簡ではなく、
  書簡体の公開文書ですから、実質的には 「公同書簡」 の仲間です。

  他方、伝統的に 「公同書簡」 と呼ばれてきたものは、第2、第3ヨハネ以外は、本当は書簡ではありません。
  第2、第3ヨハネも、特定個人あての手紙ではなく、実質上は、仲間の諸教会に送られた回状みたいなものですが。
  他の文書は、そもそもまったく手紙ではなく、公開論文みたいなものです。
  うち、第1、第2ペテロとユダ書は、擬似パウロ書簡のひそみにならった擬似ペテロ、擬似ユダ書簡です。
  ヘブライ書とヤコブ書は、それぞれ本来は、まったく手紙でも、もちろん擬似書簡でもなく、
  最初かられっきとした公開論文です。
  まあともかく、これらの文書を、普通の意味の 「手紙」 と呼ぶわけにはいかないから 、
  「公同」 というレッテルが貼られることにした。
  この場合 「公同」 とは、chatholicus (普遍的) という形容詞の訳語。
  キリスト教会一般に普遍的に呼びかける文書、ということ。

  そういうわけで、伝統的なレッテルは別として、本当に 「公同の」 というレッテルに堂々とあてはまるのは、ヘブライ書とヤコブ書だけでしょう。

   以上です。

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