マルコ福音書註解、中・下巻

発 行 未 定
                     2012年10月記


 上巻 (新教出版社、1971年) を発行してから、すでに40年を越えました。 何ともはや。

 実は、この内容はすでに講座で十分に詳しく話し、講座内容も文章化して参加者に配布してあるので (実際に本にする三倍ぐらいの大量)、その気になれば、それを著作として発行することは十分に可能なのですが、現在は、ともかくまず 『訳と註』 を仕上げることが自分としては最大の責任、健康と体力が許す限り何とか急いでこれを仕上げないといけませんので、他の著作に手をつけることはできません。

 それと、『訳と註』 第1巻のマルコ福音書の部分が、内容的にはかなりこの 「註解」 の 「語釈と写本」 の項目と重なりますので、それとの調整が必要になります。それをどういう形で整えるか、『訳と註』 が仕上がってから、ゆっくり考えることにいたします。

 しかし、内容的には、「語釈と写本」 の項目だけでなく、話の中身の分析、その歴史的位置づけ、等々は非常に重要なことであって、やはり何らかの形で本にして出版しないといけない、と思っております。マルコ福音書は、歴史上、極めて重要な書物ですから。
 その場合、同じ書物の中・下巻という形になるかどうかは、わかりません。

 中巻の仕事がかくまでも遅れた理由について、 このホームページの以前の版で、 くどくどと言い訳を書きました。 あまり、 みっともよくはないのですが、 せっかく書いたから、 もうしばらく消さずに、 以下に残しておきます。
 最後に、現在の見通しを書き足しました。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 中巻がかくまでも遅れた理由

(1) 基本的には、この種の学術書を書けるような生活をしていなかった、ということです。上巻を出した後、2年間ゲッティンゲンの神学部の講師をしていて、その間は註解の仕事もかなりやりましたが、その後2年間(74〜76年)のザイール(現コンゴ)での生活は、今から振り返っても、まだ生きているのが不思議、というような大変な生活でした。その後日本に帰って来てからは、新約学の専門とはほど遠い仕事をしていましたので(78年以降大阪女子大学)、とても集中して註解書を書ける状態ではありませんでした。
 大阪女子大学に居た21年間に出版した専門書は、『イエスという男』(これはザイールに行く前にすでに半分以上できあがっていた)と、『書物としての新約聖書』(これは、友人たちが講演のテープ起こしを強引に発行してしまったので、それをもとにして単行本を急いで仕上げる必要が生じた)の2冊だけです。
 一昨年(1999年)3月に定年退職しましたが、その後しばらくの間はまだ十分に著作の仕事をすることができず、また、大著の翻訳(『ウィリアム・ティンダル』)もあって、しばらく年月が過ぎてしまいました。

(2) しかし最大の原因は、実は、新教出版社から出すのはやめようと思いはじめたせいです。すべての著作の中でも最も時間とエネルギーを費やさねばならない註解書を、せっかく発行しても 「品切れ」状態でほっておかれる期間が多いのでは、何のために出版するのかわからなくなります。それで、上巻についてくり返し新教出版社に対し、品切れ状態でほっておかないでくれ、売れるのがわかっているのだから、増刷する経済力がないなどという言い訳は成り立たないよ、と申し入れたのですが、まったく聞く耳をお持ちにならず、「品切れ」状態が長く続いておりました。
 それに加えて、上巻のリンク頁に記しましたように(マルコ福音書註解・上巻)、無断増刷という嘘みたいな事件も発生し、もう絶対に新教出版社からは本を出さないぞ、と思っておりました。

 大学を定年でやめたら、折りを見て、他の出版社から縦書き版に改めて上巻を出し直し、追いかけて中巻、下巻を出版しよう、と。

(3) ところが、大学をやめる2年半前に、新教出版社の担当者が若い、信頼のおける人に変って、私に連絡してきて、中巻を書くことを催促されましたから、以上のようなことを申し上げたところ、早速上巻の増刷を出してくれました。それで、読者からの注文がある限り、品切れ状態を作らないようにしてくれるのなら、もとにもどって、新教出版社から中巻を出そう、という気になったのです。ちょうど定年退職の時も近づいていましたし。上巻の増補改訂版第1刷の後書きに、あと3年で中巻を仕上げる、と書いたのは、そのせいです。

(4) ところが、編集者というのは奇妙な人種で、著者に本を書かせようと思ったら、ほかの用事は一切押しつけないで、その著作に専念させる環境を作るのが編集者たる者の第一の仕事であるはずなのに、新教のこの編集者に限らず、たいていの編集者は、大きな著作を引き受けている著者に、次々と他の小さい仕事を頼んでおいでになります。この場合で言えば、私が註解書中巻の執筆に本気になったのを見るや、早速、新教出版社が出している月刊雑誌『福音と世界』に彫刻家リーメンシュナイダーについての連載を書くよう申し込んでおいでになりました。

 これは私にとっては誘惑でした。いずれリーメンシュナイダーについて本を1冊書きたいと思っていましたから。それで、同じ新教出版社でこういう連載をやる限り、その間マルコ中巻は棚上げだよ、と宣言して、リーメンシュナイダーに本格的に取り組むことにしました。
 月刊で15回(98年1月99年3月)の連載となると、相当な仕事です。この種の仕事を私は、自分の性質からして、適当に書き流すということができません。そのため二夏続けて数週間ずつヴュルツブルクに調べに行き、大学の授業のテーマもリーメンシュナイダーにし……、といった具合でした。

 どうもしかし、その編集者の方は、私がリーメンシュナイダーに取り組んでいる間はマルコ中巻は書けないよ、という事情がよくおわかりにならなかったみたいです。著者というのは何でもすぐに書ける、と思っておいでらしい。まあ、そういう手抜きの著者も大勢いらっしゃいますけれども。

 しかし、誤解のないように申し添えますが、私はこの編集者に感謝しています。おかげで、果して出来るかどうか迷っていたリーメンシュナイダーを著作として仕上げられそうなところまでやることができましたし、マルコ中巻も、とどのつまりは、新教出版社から続きとして出すことになり、今、張り切ってその仕事をすることができていますし。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 以上が、だいぶ以前に、このページに書いたことです。
 しかし、『新約聖書・訳と註』 という非常な大作に取り組みはじめてから (通算10年はかかる。しかもその間、他のことはほとんど何もできない)、また事情が変ってきました。
 上に記したように、『訳と註』 第1巻の内容と 「マルコ福音書註解」 の内容が部分的にかなり重複いたします。そうすると、『訳と註』 の出版を引き受けてくださった作品社への義理もあり、今までの 「マルコ福音書註解」 の計画も、それにともなって変更せざるをえません。

 それに、私としてはやはりキリスト教出版社に対する距離感を捨てきれません。これまでついに、新教出版社も含めていかなるキリスト教出版社も、私に対して、新約聖書全体の本格的な訳と註を出版することを依頼してきたことはありませんでしたし、新約概論の執筆を依頼してきたこともありません。私のことを本格的な新約学者として認知することは、一般の出版社はなしてくれましたが、キリスト教出版社はついに何としても私をそのように認知することをいたしませんでした。

 最近はいささか風向きが変ってきていますが。たとえば今年、2012年7月に、日本聖書協会が新約聖書についての大きな講演会に私を招いてくれた、とか。私を招いてくれた人たちの度量に感謝しています。しかし、これまで、私の新約聖書についての本格的な書物を思い切って出版してくれたのは、キリスト教と関係のない、いわゆる世俗の出版社でした。私としては、彼らに対し恩義も感じ、義理もあります。
 そういうわけで、『訳と註』 完成のあかつきに、このマルコ福音書註解をどういう形で仕上げて発行するか、私としては、いったん白紙にもどして、考えなおそうかと思っております。

 最小限言えることは、もしもこれをキリスト教出版社から出版すれば、一般の出版社から出すよりも、定価が2倍くらい高くなる、という事実です。これは、私には耐えられません。

 実は、40年前、この本の上巻を発行した時に、初刷りは 1200部でした。あの当時の出版事情からすれば、初刷り3000部は普通でした。現に当時発行した私の他の本はそうでした。それで私は新教出版社にせめて2000部は発行してくれないか、と交渉しました。そうすれば、定価はもっとずっと安くなっていたことでしょう。しかし新教出版社は、ほかの 「先生方」 の御本はすべて1200部なんだから、あなたのものだけ多く発行するわけにはいかない、とおっしゃって、高い定価をつけて発行なさいました。

 結果は、その定価でも、2年後までに4刷まで発行され、3000部近い発行数になりました。最初から言うことをきいてくれたら、もっとだいぶ安い定価になっただろうに、とひどく残念です。
 ほかの 「先生方」、つまりつまらぬ護教論の本と俺の本を一緒にするなよ。

 というわけで、私は、本を出すのなら、やはり、定価をなるべく安くするように配慮してくれる出版社を選びたい、と思っております。

 結論として、もちろん私は、この本の出版をあきらめたわけではありません。非常に重要な課題ですから。
 もしも幸いにして必要な健康と余生の長さが与えられたら、体力の限りをつくして、何とか仕上げたいと思っております。

トップページにもどる